坊主カメラについて


「坊主とカメラ」「遍路とカメラ」「仏の教えとカメラ」「ファインダー越しに見えるブッディズム」等をテーマに、カメラについて語っていきたいと思います。

具体的な内容は、編集長の慈空が使用しているフジフイルムのカメラについての雑談です。

仏様を上手に撮る「仏撮り」、お寺にある仏具を上手に撮る「物撮り」をはじめ、お遍路さんの写真や季節ごとの札所の景色をメインの被写体としているので、その撮影方法や注意点などを投稿していきます。

坊主カメラの読み方は「ボンズカメラ」です。

慈空のカメラ遍歴

大学時代に、京セラの派遣でビックカメラ池袋北口でバイトしてました。
売っていたカメラはCONTAXのカメラ(CONTAXは京セラの所有ブランド)。当寺はRTSIII(30万くらいしてた)がフラグシップで、知識がないので、CONTAXを見に来たお客さんを先輩販売員に丸投げしたら、「お前何しに来てんの?給料泥棒!」と怒られ、「勉強したかったら、借金してでも買え!」と煽られ、CONTAX TVS(高級コンパクトカメラ)を購入。
CONTAXの一眼レフが高すぎたので妥協したゆえ、カメラの知識は身につきませんでした。

そこから親父にNikon F3を譲り受け、バイト代を元手にMinolta α507siを追加購入。F3を売ったお金を元手に、Pentax LXを購入。
銀塩時代は、長らくLXをメイン機として、いろんなところに出かけ、写真を撮りました。

Minoltaのレンズを地元の大阪で買って、東京で売ると小遣い稼ぎになることを発見し、転売ヤーとなりました。
Pentax LX関連の純正アクセサリーを、日本で定価購入してeBayで売ると、これも小遣い稼ぎになることを発見し、転売を繰り返します。
気づけば、PentaxのAスターレンズを複数本所有する、レンズコレクターに昇格していました。

デジタル時代に突入して、NikonのCOOLPIX800、FUJIFILM F710、OLYMPUS CAMEDIA C70 ZOOM、RICOH GR DIGITAL(初代)、SIGMA DP1 Merrill、FUJIFILM XF1、Panasonic LX100、SONY RX10MarkIVなどを遍歴。記憶に残っている機種だけで、買ったものの自分に合わなかったものは、直ぐに売却しました。
初めてのデジタル一眼レフとして、OLYMPUS E-1を購入。購入資金は、転売ヤー時代にコレクターしたPentaxスターレンズ群。
E-1と共にデジタルに完全移行しようと、Pentax LXは本体とレンズ2本だけ残して全売却しました。
フォーサーズユーザーとして、E-620、E-3、E-5を遍歴。松ズームZD150/2、ZD90-250/2.8やパナの大ズミを所有するほどシステムを組み上げ愛用しました。
OLYMPUSがフォーサーズを撤退したときは心底ガッカリしました。愛ゆえに憎悪に転じて、OLYMPUSと離縁して、マイクロフォーサーズはパナユーザーとなりGH3、GH4を愛用して動画に目覚めます。
その後、動画はSONY α7sIIを購入しますが、フルサイズダブルマウント体制は、資金的に苦しく、X-T2でFUJIFILMの動画性能が上がったことで撤退。

FUJIFILMが、APS-CセンサーのXシリーズを最後発のデジタル一眼カメラとして展開すると、静止画はOLYMPUSからFUJIFILMに全面移行。X-E1、X-T1、X-Pro2、X-T2、X-T3と遍歴して、現在はX-Pro2とX-T3の2台体制で撮影に臨んでいます。

もともと浪速のサラリーマンだったので、守銭奴よろしく、安く買って高く売ることが板についておりますので、ヤフオク、メルカリ、個人輸入、キックスターターなど、いろんな売買をせかせかと繰り返してきました。
坊主になってからは、これではイカン!と思い、断捨離の精神で、所有欲を満たす買い物は控え、その買い物の先に衆生の幸せはあるか、を問うて、購入を見極めるようにしております。それでも理解の乏しい妻には”物欲の権化”とたしなめられております。

何を撮るか

学生時代とサラリーマン時代は、旅が好きだったので、自転車旅行や海外旅行の旅ログ的なスナップがメインでした。

坊主になって、小豆島になってからは、小豆島の景色を撮りたくなって、子供ができてからは、その自然の中で育つ子供たちがメイン被写体となりました。

お遍路さんの写真や、霊場の景色、仏像の写真を撮りためていたら、メディアやイベントで重宝されるので、そういう需要に応えるべく、ライフワークとして記録を撮り続けております。

お寺や仏様は写真に撮ってよいものか

プロの写真家でも、お寺や仏様を撮るのは気を遣う。どこまで撮っていいか案配がわからない。という話をよく聞きます。

お寺によっては撮影はオールNGのところは少なくありません。
その主な理由は、参拝者の邪魔にならないように、という配慮のためですが、もう一つ理由があるように思います。

これはお寺の坊さん同士の意見交換でよく聞かれた意見ですが、写真ではそのお寺の荘厳な雰囲気、ご本尊の佇まいは表現できない。
そのため、写真で見て、わかったような気になられては困るので、実際足を運ばないとわからない状態を保ちたい。

これは本当にわかる気持ちです。
なので、それでも来てくれる参拝者が後を絶たないのなら、お寺の人間として全面的に同意します。
しかし、現実には写真による広報をしないと、誰も来てくれません。理想と現実は違いますね。
個人のブログでも、写真を載せてもらって、周知してくれるのは、大助かりのはずなんです。

しかし、世の中には誤った広報というのもあって、薄暗いお寺の本堂で、見えるか見えないか微妙な仏様の尊顔を、真正面からフラッシュを焚いて、あからさまにしてしまうのはその典型です。
「なんかケバケバしくて、別に行かなくてもいいか」「あんまり有り難いお顔ではないなぁ」など。
お寺を護持してきた人、魂を込めて仏像を彫った人、いろいろな人の意に背く行為です。

碁石山の本堂も薄暗く、ご本尊の御姿もはっきりとは見えません。だから、毎日向き合っていても、自分の心境によって、喜怒哀楽さまざまな表情を醸されます。
信心や想像力で補う部分があるから、多種多様な参拝者に応対できる、とも言えます。
そのことを大事にして、仏様の威厳と荘厳な佇まいを損なうことなく、美しく・有り難い存在として写真に収める、ということを心掛けて、そこにちゃんとした技術が伴えば、お寺を護持してきた先人を裏切ることにはならないと思っております。