小豆島のお遍路

 今でこそ、オリーブの島、リゾートアイランド、というようなイメージで語られる小豆島ですが、地場産業が興る前は、天然の地形を利用した修行地として有名だった時代があります。瀬戸内海で一番高い山である星ヶ城を頂点に、切り立った崖や洞窟が多い土地は、山岳修行にうってつけで、俗世間とのつながりを物理的に断てる離島という環境も手伝って、修行の島と呼ばれていました。善通寺で誕生したお大師様は、若かりし頃、四国の自然の中で修行していたので、活躍の地 京都への道すがら小豆島でも山籠もりの修行をしていた、という言い伝えから、この小さな島に独自の霊場が生まれました。「独自の」と強調する理由は、瀬戸内海近隣の島々が、四国に渡って旅をするのが大変だから、札所と御本尊をまるごと地元にコピーして創作した「写し霊場」なのに対し、もともとあったお寺や山岳霊場、堂庵をつないで八十八ヶ所とした小豆島霊場では、成り立ちも特徴もまったく異なるオリジナルだからです。

 小豆島の遍路が、史実に登場するのは貞享三年(一六八六年)のことで、江戸の初期には霊場が整備され、八十八ヶ所を巡拝していったと『小豆郡史』にあります。しかし、時代と共に、為政者が頻繁に変わり、切支丹大名統治下や天領だった時代に、文献の多くが消失したため、それ以前に巡拝の歴史があったかどうかは確実なことは言えません。それでも、八十八ヶ所霊場としては、四国と並んで特別古いことは間違いないようで、灯籠や石碑に刻まれた年号がその歴史を証明しています。
 四国を「本四国」と呼び、それに対抗して小豆島を「元四国」と呼ぶ人もいるほどです。遍路に似た「辺路(へじ)」と呼ばれる海と陸の境を歩く修行が、遍路の起源という説もあり、小豆島で盛んに行われていた修行形態が、四国でも模され、遍路となったという視点を持つことは、小豆島遍路をする上で大事は心掛けだと思います。

豆知識

遍路のはじまり

霊場年表

 お遍路は、平安時代の僧侶空海に縁のあるお寺を巡る旅です。空海は、八三五年に高野山奥の院で入定し生涯を閉じたとされておりましたが、その九〇年後に弟子の観賢(高松出身)が、朝廷に働きかけ、弘法大師号という位を授かり、以後、弘法大師空海と呼ばれ、お大師様と親しみを込めて呼ばれるようになりました。観賢は高野山の御廟に入り、お大師様に大師号をいただいた報告をしました。その時、大師の髪の毛はのび放題で、衣も土で汚れていたことから、「お大師様は亡くなったわけではなく、世の人々を救うため、今でも各地を行脚されているにちがいない」という入定信仰が生まれました。
 十一世紀頃に、入定信仰は盛んとなり、四国を中心に弘法大師を見た、という人が増え、お大師さまが日夜出歩かれているのは、四国の八十八ヶ所だ、というのが定着してきました。しかし、鎌倉、室町、戦国と、庶民が国を跨いで移動するのが難しかった時代に、八十八ヶ所を巡る旅がメジャーだったはずもなく、一部の修験者に限定されたものでした。江戸時代になって、国が安定してくると、俗人による遍路が増え、一六八七年に初の四国遍路ガイドブック『四国辺路道指南』が刊行されると一気に大衆化しました。

衛門三郎伝説

 天長年間の頃の話である。伊予国を治めていた河野家の一族で、浮穴郡荏原郷(現在の愛媛県松山市恵原町・文殊院)の豪農で衛門三郎という者が居た。三郎は権勢をふるっていたが、欲深く、民の人望も薄かったといわれる。あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとした。三郎は家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れた。八日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし(つかんで地面にたたきつけたとするものもあり)、鉢は八つに割れてしまった。僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師であった。

 三郎には八人の子がいたが、その時から毎年一人ずつ子が亡くなり、八年目には皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。

 三郎は懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合い気持ちから、今度は逆に回ることにして、巡礼の途中、阿波国の焼山寺の近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫び、望みはあるかとの問いかけに来世には河野家に生まれ変わり人の役に立ちたい(石手寺刻版には「伊予の国司を望む」)と託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り「衛門三郎」と書いて、左の手に握らせた。天長八年十月のことという。

 翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男が生まれるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたという。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。(ウィキペディアより) 

 衛門三郎の話は、石手寺や八ツ塚という現存するお寺と地名から、遍路の起源として語られることが多いのですが、四国霊場会の公式な見解とはなっていません。生前の弘法大師が、本当に四国を遊行されていたのか、という素朴な疑問に加え、おかげ話というよりも、むしろお大師様も残酷なことをするものだ、という同情話に聞こえてしまいかねないからです。しかしながら、当時は、怨霊・天罰が疑いも無く信じられ、神仏は時に非常なまで残酷な存在である、というのが社会通念だった時代であったことは、認識しておかなければならないでしょう。真実はさておき、逆打ちした時にようやくお大師さまに逢えた、だから逆打ちは有り難い。何度も八が出てくることが八十八の起源かもしれない、という要素を知るだけで十分だと思います。

小豆島と四国の違い

1.洞窟や崖地にある山岳霊場が多い

小豆島全体が海底火山が隆起してできた岩山のような地形をしており、長年の風化によってできた洞窟や崖などが修行場として使われ、そうした修行地がお寺として発展してきた歴史がある。

2.全ての札所が真言宗であるため、必ずしも大師堂がない

宗派の開祖である弘法大師像は、本堂に奉られていることも多いので、わざわざ別にお堂を建てて奉る必要がない。
四国の場合は、禅宗や浄土宗、天台宗のお寺が霊場寺院の中にあり、始祖が必ずしも弘法大師でないため、宗派の本尊とは別に、弘法大師を奉る空間が必要なため、別途大師堂を建立して奉ってある。

ちなみに、小豆島の寺院は、高野山真言宗、真言宗御室派、真言宗善通寺派が多く、禅宗の寺院は存在しない。

3.番号どおりに並んでないので、番号どおりに巡拝しなくてもいい

霊場が選定された江戸時代初期は、小豆島の玄関口が坂手港であったため、坂手から1番が始まっている。しかし、小豆島霊場会が誕生した大正期には、土庄港に玄関口が移っていたため、そこに本部が置かれ、土庄から遍路がスタートする流れになっている。
また、時代と共に札所の移り変わりがあり、番号どおりに並ばなくなった。そのため、どこからお遍路を始めてもいいことになった。

4.納経帳の朱印は30ヶ所の寺院でまとめて行っている

札所は寺院だけでなく、管理人が常駐していない堂庵や山岳霊場もあるので、人が常駐して朱印の管理と会計が確実にできる30ヶ所の寺院でまとめて行っている。

5.納経料が違う

小豆島           四国

100円 堂庵       500円 軸
300円 寺院       300円 納経帳
200円 手書き      200円 白衣

小豆島霊場が、札所の種類によって価格が変化するのに対し、四国霊場は媒体によって価格が変わります。小豆島の納経帳は、既に札所のご本尊が墨書きされたものが印字されておりますので、朱印を押すだけです。
そして、30ヶ所の朱印を押す寺院の朱印は300円と堂庵の3倍ですが、朱印のサイズや手間はまったく同じです。
無地の朱印帳に、墨書きしてもらうためには、別途200円必要です。

例)
常光寺で朱印をする場合、一寺院で7ヶ所押します。

300円+100円+100円+100円+100円+100円+100円=900円

もし全て手書きの場合は、

500円+300円+300円+300円+300円+300円+300円=2300円

6.納め札の色ルールが微妙に異なる

小豆島             四国

1〜6回  白         1〜4回   白
7回以上  赤         5回以上   青
13回以上 青         8回以上   赤
25回以上 銀         25回以上  銀
50回以上 金         50回以上  金
70回以上 錦         100回以上 錦

青と赤の順番が逆なのが謎です。四国は青を使う機会が5〜7回しかないので、とても少ない。それ以外は、似ていますが錦の納め札を使えるようになるのは小豆島の方が早いですね。
理由は、誰に聞いてもよくわかっておりません。

7.小豆島150km 四国1200km

歩いて小豆島は1週間。四国は1ヶ月半。
車だと小豆島は3泊4日くらい。四国は10日〜12日くらい。

おおよその目安ですが、88ヶ所の読経を繰り返すだけでもそうとうな時間が必要なので、距離が短いからといって、車で1〜2日で回れるようなことはありません。

8.ローソク、線香は札所に備え付けのものを用いる

巡拝には費用がかかりますので、なるべく安く納めるために、線香とロウソクは手持ちのものを使う。というのが遍路の習いですが、小豆島の場合は、札所にロウソクと線香が用意されいていることが多く、備え付けのものがあれば、それを使うようにしてください。

理由は、札所の維持管理のためです。お寺はもちろん、無人の堂庵と言えども電気代などの経費はかかります。掃除やお堂の開け閉めなどは、近所の人が持ち回りで当番していることが多いですが、維持管理のために買い揃えないといけない備品などが発生します。それを随時自治会費などで落とすことはできません。
そのため、なるべく用意されいている線香・ロウソクをお賽銭代わりに買って、お金を落として行ってあげて下さい。

小豆島霊場の特徴として、ロウソクを買った場合、名前を聞かれて
「山田太郎の家内安全、身体健康、所願成就のために御宝前に一灯〜♪」と読み上げてもらえる場合があります。
この風習があるのは、小豆島だけじゃないかなと思います。

また、ロウソクを寺院で買った場合、お寺の人が一緒にお経を読んでくれたり、鐘を付いてくれたり、カイタクを叩いてくれたりします。

9.88ヶ所以上ある?

小豆島霊場は何気に94ヶ所札所があります。

3番観音寺  と 3番奥の院 隼山
58番西光寺 と 58番奥の院 誓願之塔
72番瀧湖寺 と 72番奥の院 笠ヶ滝
76番金剛寺 と 76番奥の院 三暁庵
番外藤原寺
霊場会総本院

重なっている4札所と、番外というよくわからない札番の藤原寺、霊場会総本院でも朱印をするのでプラス6札所

88+6=94札所

となります。
四国霊場にも、番外20札所がありますが、四国八十八ヶ所の中には含めないので、違いますね。

奥の院には古くから奥の院とされてきたものが多いので、近年数が増えた、というものではありません。